2006年03月22日
冨樫昭裕氏について
冨樫昭裕 自己紹介
私は、昭和44年山形県鶴岡市に生まれ、1歳で宮城県富谷町に、4歳で現在の実家のある仙台市富沢へと移り住みました。
西多賀中学校を卒業し、仙台一高へ進学。一高では学業はさっぱりでしたが、柔道部では主将で3年時の宮城県高校総体柔道60kg以下で優勝し、インターハイに出場しました。
卒業後ファッションデザイナーを目指して宮城ドレスメーカーに進学しました。しかし遊びたい盛り、学業に集中することができませんでした。ただ、年に1回行われる校内ファッションコンクールだけは真剣に取り組み、連日、深夜まで学校に残り作品を完成させました。そのとき、初めて服作りのむずかしさを知りました。服作りは、まず作りたい服のイメージ画を描き、そこからパターンを起し、製図し、イメージに合った布を選び、裁断縫製し、仕上げていきます。いくつもの難所があるわけです。イメージを絵にするところから大変で、ここをなんとかクリアーしても、布選びがまたむずかしく、イメージ通りの物は先ずありません。結局それに近い物に妥協し先に進むしかありません。縫製してみると実物とイメージのギャップに打ちのめされます。イメージと完成品の間には、技術的未熟さと妥協が幾層にも重なり、どんどん遠ざけていくのです。デザイナーとなった人たちはこのギャップを埋めるべく努力するのでしょうが、私にはできませんでした。しかしこの挫折から一筋の光明を得ることができました。イメージを実体化する一時的な作業の、絵を描くことのおもしろさを知り、次第に画家を志す気持ちになってきました。
ドレメ卒業後、美大系予備校で一浪し、日大芸術学部芸術学科に入学しました。入学当初は主に裸婦の習作をやっていましたが、後半は画家になるための方法論を考えるようになりました。そして導き出した答えが絵画コンクールで受賞することでした。受賞して名前が出れば、画家としての仕事のオファーがくるだろうと考えたからです。そこで4年時に初めてコンクールに出品しました。結果は残念ながら落選でした。その後大学院受験があって出品を控えましたが、大学院に進学してからは、また出品を再開しました。2度目の出品となった団体展で東京都知事賞を受賞することができました。その後は入選はするものの、入賞には至らないという状況が続きました。
大学院終了後は、東京の私立中学で非常勤の講師をしながら制作し、出品を続けました。98年には17ものコンクールに出品しました。その年兵庫県加西市で行われた第8回花の美術展でスポンサー賞という小さな賞を受賞しました。しかしその後は、今ひとつ手ごたえのない出品が続き、99年になり、作風を見つめなおし、ソーイングの技法を取り入れ、縫い線と生地の有機的な素材感を生かし、それと絵の具(水彩ペイント)の無機的な物質感をぶつけ合い尊重しあう抽象絵画を作り上げました。そして第1回池田満寿夫記念芸術賞で次席に当たる佳作賞を受賞すると霧が晴れるかのように受賞が続きました。第9回青木繁記念大賞公募展特別賞、第18回上野の森美術館大賞展優秀賞、第5回小磯良平大賞展佳作賞、第2回池田満寿夫記念芸術賞佳作賞等です。しかし、当初目論んでいた受賞によって画家の仕事が広がるということはありませんでした。
再び、自分の絵と画家としての仕事について考えました。そもそも画家とは職業的な意味合いの言葉です。簡単にいえば、自作の絵を売って生業とする人のことでしょう。絵を描く人がすべて画家というわけではありません。そこで私は何を目指すのか?好きな絵を描いていれば満足なのか?いいえ、私の目指すものは画家です。
これまでの私は個展を銀座、青山等で8回行ってきましたが、多くの人に見てもらえれば、売れなくても、ある程度の目標は達したと思っていました。しかし、今回は売るための個展を行います。当面の生活費と制作費を得るために行うのです。藤崎デパートという箱で開催するのも目的をぶらさないためでもあります。非常識ながら突然の持ち込みで藤崎を訪れ、作品を見ていただき、個展を開催していただくことができました。本来ならば門前払いでも仕方ないところでしたが、真摯に作品を見てくださった藤崎のギャラリストの方には心より感謝しております。誤解のないように付け加えると、私は会場で自分の絵についていろいろと思いを話すことでしょうが、購入を勧めることはいたしません。見た人が私の絵を手に入れたいと思わなければ、売買は成立いたしません。今回の個展で目標の売上に達しなければ、私の敗北であり、画家としての未熟さの結果です。目標に達すれば画家と自負できます。
- by gram3
- at 19:45
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